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丸田祥三&村田あやこ『昭和の街歩き/令和の街歩き』/都市のラス・メニーナス【#3-3】

丸田祥三&村田あやこ『昭和の街歩き/令和の街歩き』/都市のラス・メニーナス【#3-3】

2020年から「路上観察の現在地を探る」として、いろいろな方をお招きして、その方が見ているものの魅力、また、どうしてそういう視点に至ったかなどを、片手袋研究家の石井公二編集者・都市鑑賞者の磯部祥行がお聞きしてきたトークイベント『都市のラス・メニーナス』主としてYouTubeで配信してきた。「ラス・メニーナス」とは、17世紀にベラスケスによって描かれた、見る人によってさまざまな解釈を生じさせる絵画。街も、人によって、まったく異なる見え方をしているはずだ。

2025年6月より、東京の谷根千地域で建築・食・宿・アートなど、あらゆる方面で活動中のHAGISOが手掛ける谷根千地域のローカルメディア「まちまち眼鏡店」と組んで、新たな形でスタート。その第3回、丸田祥三さんと村田あやこさんによるクロストーク『昭和の街歩き/令和の街歩き』がJR西日暮里駅構内のコミュニティスペース「エキラボniri」で開催された。

(↑中央左が丸田さん、中央右が村田さん。左端が磯部、右端が石井。写真:@twinleaves

丸田さんも村田さんも10月に新刊を出したばかり。丸田さんは『廃線だけ 昭和の棄景』、村田さんは『緑をみる人』。『廃線だけ 昭和の棄景』は、一見、いわゆる「路上観察」という体裁ではなけれど、実は廃線跡というのは「人が見ていないもの」「視界に入らないもの」で、同時に街も相当に見ていたという非常に興味深いお話から始まった。

(↑『廃線だけ 昭和の棄景』に収録されている越後交通長岡線の廃線跡。このすぐ近くの田んぼ内に二宮金次郎像があり、それがこのあと写し出される)

いまでこそ「廃線」といえば誰でもわかるし、観光行政に利用されたりもしているが、幼少のころから廃線を見つめ、写真に収めていた丸田さんは、当時、心ない言葉を投げつけられていたという。「そんなものを撮ってどうするんだ」と。しかし、「いま、自分が見て、撮っておかなければ絶対に残らない」という信念を秘めて、一人、作品を作り続けてきた。それが1993年に上梓した初めての作品集『棄景』に結実し、今年の『廃線だけ 昭和の棄景』につながっていく。

その『棄景』の企画・担当は、映画評論家の町山智浩氏だった。町山氏は『VOW』の編集者としても有名だが、「丸田さんの作品に写された光景はVOW的な対象としたくない」というはっきりとした意識でもって、まったく別のスタイル…JICC出版(現宝島社)が当時手がけたことがなかった写真集として刊行された。そして数万部というベストセラーとなった。「街中のちょっとおかしなものをクスリと笑う」VOWを手がけた編集者が、真剣勝負の塊である『棄景』を作ったということに、町山氏が路上観察に果たした大きな大きな役割を感じる。

「いま、自分が見て、撮っておかなければ絶対に残らない」という対象は、廃線跡だけに留まらない。丹頂式電話ボックスや使われなくなったバス停、丸形ポストの群れから、開発される直前の東京郊外の光景(→『棄景Ⅲ 東京』1998)なども膨大に撮影している。「路上観察」という言葉が出版物となって世に出たのが1986年。それ以前からそうした光景を見て、撮ってきた丸田さんにとって、「トマソン」にまとめられてしまうのは、納得がいかないことだった。だから、ほとんど発表してこなかった。また、これは現代のデジタルカメラのように無尽蔵に撮ることなどできない、フィルム時代の話だ。過去の街中の写真を見る際には、そういう時系列や社会的背景をもわかったうえで臨みたい。

やがて失われてしまうだろう風景を作品に昇華させようと決めた中学生の丸田少年の作品は、『廃線だけ 昭和の棄景』にもいくつか収録されている。そうした作品は、当時の街を雄弁に物語っている。また、丸田さんは現地の人たちに話を聞き込んでいる。しかし、そうした作品は、当時は発表する術もなく(後年、写真集として出版されるなどとは思ってもおらず)、ただ、自分の作品として作り上げていく。それが「昭和の街歩き」だった。

続いて、『緑をみる人』で国内外19人の「みる人」の話をまとめた村田あやこさん。新宿・大京町生まれの丸田さんに対して、福岡市郊外で生まれ育った村田さん。もともとご尊父が『VOW』を愛読していたそうだが、「街」の風景を目に留めるようになったのは、北海道の大学に進学して札幌に住むようになってからだという。地理学を学びつつ、初めての海外旅行で行った中国で、街により興味が湧いた。そしてデイリーポータルZの「コネタ道場」に応募して掲載される。また、雑誌『風の旅人』でのインターンを通じて、そこに存在するものに着目するようになる。そんなある日、道路上に勝手に園芸がなされている光景を見て覚醒する。そこから、路上園芸を通じてのさまざまな考察が始まる。

路上に溢れる緑は、人がコントロールするものもあれば、コントロールしていないものもある。本来の管理者とは別の人が勝手にコントロールを始めたり、コントロールしていた鉢植えから「逃げ出した」植物が、さまざまな場所に根を張ったり。そんな路上園芸の光景に惹かれてきた。そして、それをSNSに投稿し始めた。

令和のいま、街歩きはスマホを前提に、SNSで共有したり、(見知らぬ人を含めて)交流したりするようになった。また、村田さんは落ちもん写真収集家の藤田泰実さんと「SABOTENS」というユニットを組んで、さまざまなグッズを作っている。そうした、路上に関するZINEやグッズを比較的容易に作れるようになったというのも、令和の街歩きの一つの形でもあるだろう。

バーチャルな時代で、正解がわからない時代だからこそ、どんな環境でも居場所にする「路上の緑」というリアルな存在から何かを読み取れたら生き延びられる気がする、と村田さんはいう。「生きづらい」という感情がかつてなく世の中の人の心を覆っている現代では、どんな環境でも居場所にする路傍の草は、とても頼もしい。

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路上観察は、その時々の時代を反映する。その手法も、考察も。「路上観察」は、それそのものを考察する時代に入っている。そのための貴重なキーワードが散りばめられたトークイベントとなった。

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都市のラス・メニーナス

片手袋研究家の石井公二(@rakuda2010)と、編集者・都市鑑賞者の磯部祥行(@tenereisobe)がお送りする、「路上観察の現在地」をさぐるユニット。そもそも「路上観察」って、いやいやそれどころか我々が舞台とする都市や路上って、一体何なんだろう? 路上に飛び交う多様な視点。路上を見続けるうちに路上から見返されているような不思議な感覚。ベラスケスの絵画『ラス・メニーナス』を読み解くような気持ちで、皆さんの路上観察のお話をうかがいます。 過去のnoteはこちら。動画アーカイブはこちら。

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