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はなし家の眼鏡──vol.1 三遊亭好太郎さん

はなし家の眼鏡──vol.1 三遊亭好太郎さん

はなし家の眼鏡

谷根千ご近所エリアには、明治時代に活躍された著名な落語家のお墓があったり、このまちを拠点に暮らす人気のある落語家の方もいたりと、落語にご縁のあるまち。はなし家の眼鏡では、このエリアで暮らしている落語家さんに「まち」と「落語」が生み出す繋がり、知られざる落語の魅力を聞いていきます。聞き手を務めるのは、谷根千にお住まいの本多哲也さんです。

落語と新しい生活様式

「谷根千と落語」についてお話を伺おうと、千駄木在住の落語家、三遊亭好太郎さんにお会いしたのは、須藤公園のベンチ。周りでは子供たちが元気に大声を出して走り回っています。 

──世の中のコロナに対する対応もだいぶ変わってきましたね。2年前には外で子供を遊ばせることも控えなきゃいけないような状況だったんですが。落語の方はどうですか。

好太郎:少しずつ元に戻ってきています。感染対策をしながらお客さんに入っていただいています。 でも、まだ難しいですね。なにせ感染防止の基本は「人に向かってしゃべるな」ですから。 しゃべらなきゃ落語家は仕事にならない。フェイスシールドを着けて話したりもしましたが、声が通らなくてやりにくい。何より今はお客さんがみんなマスクを着けておられますから、表情が見えません。我々はお客さんの反応を見ながら演じるので、表情が見えないというのは厳しいですね。早く、お客さんが気兼ねなく大声で笑えるようになってほしいです。 

付き人時代に過ごす「まち」

──好太郎師匠と谷根千との縁というのは。 

好太郎:私が師匠の三遊亭好楽に入門したのが昭和60年の10月ですから、落語家になって、もう37年くらいになりますね。最初に住んだのが谷中3丁目、開成学園の向かいあたりの3畳一間、家賃8000円。学生さん向けの下宿だったんでしょうが、空いていたんで借りられた。今じゃ、3畳一間のアパートなんて無いでしょうね。 
その頃は、好楽が西日暮里の富士見坂の上、諏訪神社の前に住んでいて、前座の時は毎朝師匠の家に掃除に行きますし、夜は師匠の付き人で遅くなることも多いので、歩いて行ける所にしようと。 
私は熊本の田舎から出てきて、都心に行くと人の多さと歩く速さに驚くような人間でしたから、谷中のリズムというか、せわしなくない雰囲気には馴染みやすかったです。周りの人もいろいろ相談に乗ってくれたり、ある意味おせっかいなんですが、人情味がありました。 


二つ目になって足立区の竹の塚に移りました。大師匠の(先代)五代目円楽が竹の塚に住んでいて、弟子部屋みたいのがあったり、一門の集まりにも便利でしたから。でもアパートが取り壊しになって、2年半くらいでまた引っ越しです。ちょうどバブルの頃で、めちゃくちゃ忙しかった。落語だけじゃなく、イベントの司会やら余興やら何やら。テレビの仕事もありましたし。となると、上野や浅草が近くて、東京、成田にも行きやすい場所ということで、千駄木に越して来ました。それから2回引っ越しましたが、ずっと千駄木住まいです。落語家は仕事で全国に行きますから、交通の便の良さは大きいですね。 

落語へと繋がる谷根千暮らし

──その頃は、このあたりは銭湯も多かったし、長屋も残っていたんですよね。銭湯、 長屋というと、落語の舞台という感じです。 

好太郎:谷中にあった世界湯にはよく行きました。古今亭志ん生師匠が通っていた銭湯で、落語家憧れの場所でしたよ。「志ん生がこの湯に浸かっていたんだ」ってね。ただその頃、世界湯の客に「たわしおじさん」がいて、人の背中をたわしでこするんですよ。本人は好意で洗ってやっているつもりなんでしょうけど、いやあ、痛かった。 
やっぱり志ん生師匠は大きな存在ですし。最初谷中に住むことになったときは、この町が落語とつながりがあるなんて知らなかったんですが、志ん生師匠が住んでいたと知ると、 特別な町に思えました。 

谷根千は、落語好きというか、落語に馴染んでいる方が多いんでしょうね、落語の催しは多いです。 

お寺や蕎麦屋は、広間や座敷があってやりやすいですし、その他にも居酒屋やおでん屋など、いろんな場所で演らせていただきました。根津ふれあい館の「ふれあい寄席」にも出させていただいたり。 
谷中の全生庵で8月11日の三遊亭圓朝※の命日に合わせて開く「圓朝寄席」にはお客さんが 500人も来て、本堂には入り切りませんから、下まで人があふれて。真夏ですから暑くて汗だくでした。 

全生庵といえば、笑福亭鶴瓶師匠が「死神」を演じる前には、全生庵にある圓朝の墓に「死神を演らせていただきます」とお参りに来るという話を聞きました。もしかしたら、全生庵は落語の「聖地」のひとつかもしれませんね。 

※「三遊亭圓朝」明治期の落語中興の祖と言われる。多くの落語を創作、「死神」もその一つ。 

私もこの界隈のいろんなお店に行きまして、店の方やお客さんと親しくなって、「この店で落語会ができたらいいですね」なんて言うと、「あ、どうぞどうぞ」という感じで。 谷根千は落語会を開くハードルが低いですね。 
皆さん面倒見がいいですから、チラシも気軽に置いてくれますし。銭湯に張り紙を貼ってもらったこともあります。 お客さんも気軽に来て、蕎麦食べたり、おでん食べたりして落語を聞いてくださる。落語が 普通に生活の近くにある方が多いんだろうと思います。

よみせ通りにあった「砺波」という大衆割烹によく行っていて、ご主人夫婦にはお世話になっていたんですが、ほぼ年中無休のお店だったので、ご主人夫婦は私の落語会に来る機会が無かったんですよ。そしたら親しい常連さんが、「だったら砺波で好太郎の落語会をしよう」と、落語会を企画してくれました。 
あまり広くない店なので、しつらえた高座の座布団に上がって下手を向くと、目の前に冷蔵庫がある。その時ゲストで来ていただいた上方の落語家さんは「私もいろんなところでやらせていただきましたが、冷蔵庫に向かって話したのは初めてですわ」と笑ってました。 でも、ご主人夫婦が喜んで下さっていたようで、私にとっても楽しい思い出です。 

変わるもの、変わらないもの

──入門のために上京してから、ほぼずっと谷根千に住んでいて、町の変化は感じますか。 

好太郎:ずいぶん変わりましたね。銭湯も長屋もどんどん無くなりました。ただ、私が越してきた頃は、子供が少ない町だったんですよ。千駄木の汐見小学校は、10数年前に私の息子が通っていた頃は、1学年1クラスでした。それが今は1学年3クラスですか、子供や若い方が増えたというのは感じます。やはり、この20年くらいで大きなマンションが増えたのが大きいんでしょうね。 

マンションができるというのは、長屋など昔からの建物や町並みが無くなることとの引き換えでもあるので、思い出の場所が無くなる寂しさはありますが、若い人が増えて町に活気をもたらしてくれるという面もあって、気持ちとしては複雑ですね。 それでもまだ、谷根千には路地が残っています。路地は静かで歩きやすくて、落語の稽古にはいいんです。落語家は外で歩きながらぶつぶつ落語をつぶやいて覚えることが多いんですよ。人から見ると、ぶつぶつ言いながら歩いている怪しい奴と見えるかもしれませんが。 

それに、路地を歩いていると、いろんな発見があって楽しいですね。こんな古いものが残っているんだ、とか。最近は古い建物を保存して活用するお店などもありますし。町の魅力という面でも、景観を残すというのは大切だと思います。 

変わらないのは、町の人の「人付き合いの気持ち」でしょうか。お祭り好きで、いろいろイベントをやっているというのも、人とのつながりを楽しんでいるということですよね。 長く住んでいると顔見知りだらけになってきて、今は禁止になりましたが、谷中霊園で花見ができた頃は、霊園の道を歩いていると花見をやっている方たちから次々と「あ、好太郎さん、ちょっと飲んでいきなよ」って声をかけられて。道を往復する間にべろべろになりました。 

そういう、人と親しくなれる町の空気は、変わらないでいてほしいですね。

落語家 三遊亭好太郎さん
昭和36年10月24日生 熊本県出身
県立翔陽高校卒 大津町農業協同組合(現JA)勤務
昭和60年11月 円楽一門三遊亭好楽に入門
平成元年3月 二ツ目昇進
平成4年10月 真打昇進

公式ホームページ:https://koutaro.site/
youtubeチャンネル:https://www.youtube.com/channel/UCZa8Gb_QVkisofLbphKMaXA/featured

この記事を書いた人ライター一覧

本多 哲也

散歩好き、植物好きの千駄木住民。

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