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千駄木の眼鏡01──野口園店主・野口健治さん

千駄木の眼鏡01──野口園店主・野口健治さん

千駄木二丁目西町会の「千駄木茶話会」

語り尽くせないエピソードの数々をもつ谷根千。千駄木二丁目西町会では、「千駄木茶話会」と題して、まちの先輩たちから話を伺う会をはじめました。初回のゲストは、千駄木のお茶屋「野口園」店主の野口健治さん。イベントの様子をレポートします。

野口健治さんプロフィール
昭和10年(1935年)生まれ。不忍通り沿いのお茶屋「野口園」店主。千駄木二丁目商店街振興組合顧問、千駄木二丁目西町会相談役。父親の野口福治さんとともに『ふるさと千駄木』(1981年)を出版されるなど、千駄木の歴史に詳しい方です。

古くから団結した千駄木町

 この千駄木町というのは、成り立ちが他の町とちょっと違っておりまして。というのは隣の町、すなわち根津が江戸時代からの花街だったことが関係しています。普通の町はまず人が住んで、その生活を支える商人が商いをはじめて、電車が通って駅ができて発展していく、というのが形ながら、なんせ根津の方には商店が出る隙間がなかったもので、商店がみんな千駄木に集まってきた。千駄木の商店会ができたのは大正3年(1914年)。町会が「千駄木下町会」という名前で発足する7年前です。そんなわけで早いうちから商店を中心に団結していったわけなんです。

 第二次世界大戦の空襲で、千駄木は焼け野原になってしまいました。材木屋の天野さんが36本の材木を商店街に寄付してくれた。商店街の親父さんたち、町会の役員さんたちが自分たちで穴を掘って街路灯を立てようとした。大工さんや電気屋さんなんかも手伝ってくれて、焼けた文京区でも一番早いくらいの街路灯をこの町は作ったという、威張れる話もあります。それだけ、商店街と町会の団結が強いわけです。戦後、GHQの施策によって「千駄木下町会」は小さく分けられて、団子坂むこうの南町会、そして不忍通りを挟んで東町会と西町会に分かれましたが、いまでも名残があります。

 うちの先々代は湯島の方で、お婆さんがお茶屋をやっていました。お爺さんは今でいうタクシー会社、10人ぐらいの車夫を抱えて上野ステーションに人力車を出していた。しかし、自動車のタクシーが出てきて人力車の時代でなくなったので、お茶屋専門になったということです。先見の明があったのか、当時はまだ田んぼだった千駄木にポツンと一軒構えたのが今の店のはじまりです。そんな田舎町ですので、約束よりも遅くなったらしいですけれども、大正10年(1921年)に千駄木の前を市電が通りました。

 

不忍通りを走る都電。富士銀行は現在のみずほ銀行。

 市電は最初、団子坂が終点で、電話局(現 NTT)のところに車庫がありました。あとで神明町の方まで延びたので、車庫も引っ越していって、空き地になりました。私が子供の頃はその空き地に野球をしに行ったのですけれども、小石やらなんやらいっぱいあって、あんまり野球には向かなかったように思います。

 ところで、今のみずほ銀行のところの車道は歩道よりだいぶ高いです。高下駄と草履をはいて歩くとちょうどいいって悪口も言われました。なぜかと言いますと、市電のレールを埋めたまま車道にしちゃったもんで、高さに違いが出たそうです。

車道と歩道に段差があった不忍通り(「ふるさと千駄木」より)

賑わう団子坂

 市電は最初、団子坂が終点でした。駒込病院の上に土物(野菜)の市場がありまして。そこへみんな大八車で品物を持っていくんですけども。押し屋といって、大八車のおしりを上まで押していくらというような商売にしている人たちもいました。先般のNHKの朝ドラでも、根津の長屋の住人が「車でも押して稼いでこようか」という台詞がありましたが、まさしくそれが押し屋さんだったわけです。それくらい坂が急だった、また人が集まったということでもございます。

 綺麗な水が出る「菊の井」という井戸がありまして、それが名水だと言ってたくさんの人たちが入れ物をもって汲みに来たそうです。その水を使って植木屋さんたちが菊人形を作り出したわけですね。それが流行りまして、歌舞伎俳優だとかお相撲さんが人力車に乗って見に来るんで、さらにそれを見物に来る人達でごった返したそうですね。ただその後、浅草の方で興行師が電気仕掛けのものをやりまして、あっという間に団子坂の菊人形はおしまいになってしまったようです。

明治40年(1907年)頃の団子坂の菊人形。当時珍しかった蓄音機も人気を呼んだ

 千駄木は大水が多かったんです。今いないけど、いー坊、、、なんて言っちゃいけない、いーちゃん、加藤さんね。ごめんなさい、今頃墓で怒ってんな。その彼が「ケンちゃんケンちゃん、店に金魚が泳いでるよ」っていうくらいの水が来たらしい。そんなときある銭湯は無料開放して住民の皆さんに喜んでもらったそうでございます。浜田湯さん、梅の湯さん、高砂湯さん、協和湯さんとありました。あと団子坂をあがりきった左側にも大きなお風呂屋さんがありまして。斜向かいは森鴎外さんの潮観楼、つまり当時は海が見えたような高台です。遠いんであんまりいかなかったですが、一番上の大広間にあがりますと、夏などは窓を開け放して湯上がりの大人が一杯やっていたのを覚えています。 

 映画館も昔はたくさんあって、芙蓉館、根津東宝、アカデミーとありました。ちなみに、根津東宝は千駄木にあるのに千駄木東宝とは言わなかったわけです。みずほ銀行も千駄木にあるのに根津支店。赤札堂のところから千駄木へ引っ越してきたんですが、名前を変えなかった。おそらく、千駄木よりも根津の方が知名度はずっと上だったわけですよね。悔しいところです。

汐見小学校と千駄木駅

 町会のシンボル、汐見小学校は、根津小学校より20年、そして千駄木小学校より10年遅れて1927年に創立となりましたが、決して先輩たちが「この町に小学校を」という運動をしてこなかったわけではございません。ただあんまり場所がなかったわけなんです。区が土地を買い取ろうとしてうまくいかなかったりして、時間がかかってしまいました。

 戦前にできた汐見小学校の校舎は、三階建と四階建の近代的で立派な建物でした。どこからでも見える大きな煙突がありました。何かというと、戦前ですからコークスを焚いて、各部屋へスチーム暖房をしていたんです。暖かかったですよ。

 戦争の前は、お隣の今の八中のところには、白い大理石でできた立派な西洋館がありました。私どもが小学校3年4年の時に塩原へ集団疎開しておりまして、終戦になり帰ってきましたら、その白いお屋敷はもう全部焼けてまるっきり何もなくて、大きな池ができていました。汐見小学校も、いまの給食室のところにも大きな穴があいておりまして、水がじゃかじゃか流れて、私たちは跳び箱を裏返して浮かべて「船遊び」なんかしてました。

昭和22年(1947年)、店舗を建て直す時の様子。左が健治さん。後ろに煙突がある汐見小学校が見える。(「ふるさと千駄木」より)

 1980年代に改築した頃は、生徒の人数が少なくて、校舎が小さくなってしまいましたが、いままた人数が増えています。

 汐見小学校の裏門、坂の上がり口に「汐見坂」という石碑があります。以前は木が覆っちゃって見えなかったので、持ち主の了解をとって、区に木を切ってもらってきれいに見えるようになりました。左側に石垣がずっとあって、立派なもんなんですよね。マンションが作られたときに少し削られましたけど、残って良かった。あれは本当にもったいない石垣ですからね、ぜひ保存していきたいと思っております。

 また皆さんが乗っている地下鉄の千駄木駅。最初は西日暮里から根津まで素通りの予定で、千駄木町には駅はなかったんです。穴だけ掘られてガタガタうるさい思いをさせられているのに駅を作ってくれないのは何事かということで、うちの親父たちが寝食を忘れて三年間、運動をおこしまして。なんとか駅を作ってもらうことができました。一時は地下鉄の出口をあがってきたところに親父の胸像を作ろうというくらい、本気でみなさん喜んでくれていたわけです。そこまでみなさんが言ってくれるのであればということで、代わりにこの本『ふるさと千駄木』を発刊したんです。

開業した頃の地下鉄千駄木駅(「ふるさと千駄木」より)

話は尽きませんが、記事はここまで。「ふるさと千駄木」は文京区立図書館で借りることもできるので、もっと詳しい話が気になる方はぜひ読んでみてください。

「千駄木茶話会」は、お茶とお菓子を囲んで町の先輩の話しを伺いながら 気軽なおしゃべりを楽しむ、参加型のお話し会です。
昔のエピソードや、今日までの物語をきっかけに、皆さんの何気ない会話を通じて、日々の暮らしがより豊かになるヒントや、町をもっと好きになるきっかけが作れたら素敵だなと思い企画しました。
ご参加の皆様の交流を深めるのはもちろん、この様な形で “記憶” を “記録” にしながら、シリーズ化できたら嬉しいです。今後もご期待ください!

千駄木二丁目西町会のX:https://twitter.com/sendagi2w

この記事を書いた人ライター一覧

内海 皓平

1995年東京生まれ。藍染大通りに惹かれて根津に住む。まちがたり実行委員会メンバー。主な活動に『藍染大通り歩行者天国50周年記念誌』『銭湯山車巡行』『ブリコルひらい』など。写真:平林克己 WEBはこちら

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