まちまちな「まち」の人の眼鏡
“谷根千ご近所”に暮らす人・ゆかりのある人から寄せられたエッセイを紹介するコーナー「まちまちな『まち』の人の眼鏡」。2016年2月に谷中へび道から香川県に移住された、「旅ベーグル」の蛇(へび) 道男さん。谷中で暮らしていた当時から、香川での生活に至るまでのエピソードをご寄稿いただきました。
同じ屋根の下、異なる方言
谷中を離れ早6年が経ち、家族で移住した香川県丸亀市での生活にもすっかり慣れた。引っ越した頃は、ガイドブックなどに載っている店主こだわりのうどん屋ばかりを巡ったりしていたけれど、今では家の近所のいつも空いてるまぁまぁ美味しいローカルチェーンのうどん屋を好むようになっている。僕も心はすっかり「丸亀っ子」になったなと思う。(ちなみに世間で豪腕をふるっている丸亀製麺、本店が丸亀市にあるっぽいけど残念ながらここには店舗すら存在しない。)
東京で生まれた娘は、言葉の端々に讃岐弁が混ざるようになってきた。丸亀で生まれた息子は近所の保育所で讃岐弁話者のエリートコースを邁進している。僕も近所のお客さんの言うことの90%をすぐに理解できるレベルに成長したし、たまにとっさの讃岐弁が交じることもある。いくみちゃん(妻)は生まれも育ちも丸亀のはずなのだが、上京後に獲得した標準語をこのまちでもナチュラルに使い続けている。同じ屋根の下で暮らしているが、4者4様で面白いなと思う。
「旅ベーグル」の出発点
少し旅ベーグルのことを。2007年、僕は自分の今後の人生について思うところがあり(と書くとまあかっこいいけど要は脱サラしてそれまでの社会から逃げるように)、台東区と文京区の区境にある「へび道」でベーグル屋を始めることにした。30歳を迎える頃の話だ。
地下鉄の車内で「旅」という季刊誌の中吊り広告を見かけたことが、「旅ベーグル」という屋号に決定したきっかけである。つまり逃げることに必死で、自分ごととはいえ店名なんて深く考えてはいなかった。その中吊り広告を見て、ああ旅か。旅を嫌いな人は世の中にほとんどいないだろうと咄嗟に思った。何より、僕自身旅が大好きで、学生の頃はほんとうに色々な場所に行ったことも思い出した。そういえば僕は旅という言葉そのものの響きも好きだった。
行き交う日々もまた旅人なり、とかロマンティックなことを言ってた松尾芭蕉に小学生の頃から痺れていたし、中学生の頃は長渕剛の「俺らの旅はハイウェイ」がとりわけ大好きでよく聴いていたと記憶している。
あの日、地下鉄の車内で適当につけた「旅ベーグル」という屋号だけれどそれからずっと気に入っている。東京を離れて、瀬戸内の地方都市でこうしてベーグル屋を続けることができているのもこの屋号のおかげかもしれない。
谷中のへび道で旅ベーグルをしていた頃は店舗の近所に住んでいた。地下鉄千代田線 根津駅の1番出口を出て、不忍通りを渡り、言問通りをそのまままっすぐ上野桜木方面に向かうとゆるやかなスロープに差し掛かる。善光寺坂と呼ばれるこのスロープの途中に玉林寺という立派なお寺があり、東京にいた頃の我が家はその隣に立つマンションの4階の一部屋だった。小さなベランダからは上野の杜とアメ横のネオンをかすかに臨むことができた。マンションの裏側は迷路のような路地と家々が広がり、井戸もあったり、挨拶もあったりした。中部地方の地方都市から上京した田舎者の僕にとって、今、東京に住んでいるんだと実感できるささやかで素敵な住まいだった。
このマンションに住み始めた頃、地階には今や飛ぶ鳥を落とす勢いのtokyobikeの1号店(本店)が入っていた。小さなお店だったけれど、色鮮やかな自転車がきれいに並んでいて一番最初に入った時はものすごく緊張したことを覚えている。スタッフは皆フレンドリーで仕事熱心で居心地が良かった。(全然自転車を買う気配がない僕に対してもすごく優しかったな。)その頃からの付き合いになるtokyobike社長のきんちゃんとは香川に引っ越した今でも仲良くしてもらっている。歳をとってお互い自転車に乗る体型とは言い難くなってしまったけれど、今度香川に遊びに来てくれるときは一緒にうどん屋巡りをしたいなと考えている、もちろんtokyobikeで。
一日の消費エネルギーを超えるカロリー
谷中に住んでいた頃は根津駅からすぐ、言問通り沿いにあった中華料理「オトメ」には本当にお世話になっていた。ここではなんでも食べたけれど、とりわけ好きだったのはハムチャーハン。当時のオトメのハムチャーハンはパラパラ系ではなく全体的にしっとり系だった。全体的に、と書いたのはしっとりにすら達していない白米部分が残されている状態で盛り付けされていたことがあったからだ。観光客などの一見さんで、このチャーしきれていないチャーハンに憤りを覚えた方がいたかもしれない。これは料理人の怠慢だと。でも僕はその状態のチャーハンを「レア ホワイト」と呼び、いつでも美味しくありがたく戴いていた。なぜなら、その当時はおじいちゃん料理人が中華鍋を振ってチャーハンを作っていたことを知っていたから。
谷中を離れるまで厨房の中を覗き見ることはなかったけれど、ご高齢になっても第一線で厨房に立ち、お客さんのために重たい鍋を振って一生懸命料理を作っていらっしゃる姿が想像できるオトメのハムチャーハンは、料理そのものが持つカロリーを超えたエネルギーを僕に与えてくれていたと思う。またオトメのハムチャーハンには大盛りというオプションがあって、それを頼むと大盛りの概念を覆される量のハムチャーハンを対峙することになった。僕はハムチャーハンを大盛りにすることが多かった。同席した友人は「こいつほんとに大食いだな」と思っていたはずだ。まぁそれはあながち間違いではないけれどそれに加えて、チャーハンを大盛りにすることで物理的に「レア ホワイト」に遭遇するチャンスが増すという理由も付け加えておきたい。作ってくれたその人が垣間見れる食べ物が好きだ。いつだって力をもらえる。
コロナ禍ということもあり、ここ数年は谷中を訪れることができていない。僕が好きだったお店もたくさんなくなり、新しいお店も増えたようだ。オトメも代替わりして、おじいちゃんが厨房に立つこともなくなってしまったと聞いた。僕がここに記した谷中は今でも心の中に残っているあの頃の景色や味を、ゆれガラスを通して頭に浮かべているような曖昧な記憶である。今はそんな記憶を少しずつ思い出しては楽しんでいたい。そして近い将来、新しい透明なガラスが入った眼鏡をかけて”懐かしい谷中”を歩ける日がくることを、瀬戸内海の向こうで楽しみに待っている。
旅ベーグル
香川県丸亀市中津町979-1
営業時間
火・水・木・金曜日:9:00から11:30/12:30から15:00
土・日曜日:7:00から11:30/12:30から15:00
定休日
月曜日・第2第4日曜日(その他、臨時休業日あり)
電話番号:0877-43-2341
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