アレックス K.T. マーティンさんによる谷根千怪談考
妙に気持ちの浮ついた春の夜は、ほろ酔いで迷路のような路地裏を歩いてみる。薄暗い通りの街灯の下。今にも崩れそうな長屋のすりガラスの奥。何やら怪しい影がよぎった気がして、ゾクッとする。
都心に近いにも関わらず、喧騒やネオンとは無縁の、むしろ線香の匂いや墓地の卒塔婆を身近に感じるまち。過去と現在のあわいに揺らぐまち。そんな不思議な土地やその周辺の怪異・怪談に惹かれる自分がいる。異界への入り口を探しに彷徨うのもこの地域の楽しみ方なのかもしれない。
文京区の北東の端、台東区や荒川区、北区の境にある千駄木で暮らし始めて十数年が経つ。
その間二度引っ越しをしたが、同じ丁内であるため、実質数百メートルの範囲で生活をしてきたことになる。実家や故郷と呼べる場所はなく、幼少の頃から様々な場所を点々としてきたが、何故かここにすっぽりと落ち着いてしまった。
アメリカ人の父と日本人の母の元に生まれ、主に東京で育った。異なる文化や慣習の間で揺れていたこともあるのだろうか。いつからかこの世ならざるものへの興味が芽生えていた。無意識のうちに、目には見えないモノやコトを追い求めるようになった。今思えば、ここに住むに至ったのも、そんなことが影響していたのかもしれない。
隣接する谷中、根津と合わせ「谷根千」として知られるようになったこのエリアを訪れる観光客は、近年目に見えて増えていた。特にコロナ禍直前までは外国人旅行客も多く、週末の谷中銀座商店街などは原宿の竹下通りかと見間違うほどの混雑ぶり。パンデミックの今でも、県外移動を自粛する代わりだろうか、行楽客は絶えない。
昔からある寿司屋や甘味処、古民家や倉庫を改装したカフェや雑貨屋、レストラン。入り組んだ路地にたむろする猫やそこかしこに点在する江戸後期から明治、大正、昭和期に渡る古い建築物。所謂下町情緒に惹かれて沢山の人がここに集まるわけだが、その他にもこの場所には様々な顔がある。空襲の消失を免れた東京有数の寺町でもあれば、森鴎外や夏目漱石などの文豪ゆかりの地でもある。そして数多の先人達が眠るのが、坂の上の死者のワンダーランド、谷中霊園だ。
ブラブラと向かってみる。
東京メトロ千代田線の千駄木駅から三崎坂へ。左右を寺に囲まれ、首を右左に振りながら上り下りをしたという説から、別名首振り坂とも呼ばれるらしい。
歩き始めてすぐ右手には江戸末期、1864年創業の千代紙などを扱う「いせ辰」の千駄木店があり、道の反対には四角い煎餅で有名な、明治8年(1875年)創業の「菊見せんべい総本店」が店を構えている。ここまでは厳密にいうと団子坂下柳通りと呼ばれており、風流な柳の木が道の両側に並んでいる。
その先は文京区から台東区の谷中に入る。右手には銭湯の「朝日湯」が暖簾を揺らし、その向かいには江戸前の穴子寿司を求め、週末には行列ができる老舗の「すし乃池」がある。
この朝日湯だが、家から一番近い銭湯とあって、頻繁に利用している。多い時には週に数度お邪魔することもあるが、お湯は比較的熱めで、サウナ室が付いているのが特徴だろうか(水風呂はない)。日替りの薬湯や、ゲルマニウム温泉などもある素朴な湯屋だ。
朝日湯のある三崎町は明治期の落語家、三遊亭圓朝の『怪談牡丹灯籠』の舞台の一つにもなった。そしてその圓朝の墓があるのが、三崎坂の中腹にある全生庵。臨済宗国泰寺派の禅寺で、山岡鉄舟が明治16年(1883年)に建立した寺として知られている。
しかし怪談好きにとっては、圓朝が蒐集した幽霊画コレクションを納めている寺院としてのイメージが強いかもしれない。
毎年、圓朝忌が行われる 8月の1ヶ月、全生庵ではそのコレクションの全幅を一般公開しているのだが、これが素晴らしい。円山応挙や河鍋暁斎、月岡芳年などの著名な画家のものから、筆者不詳の作品まで。五十幅のおどろおどろしくも美しい、幕末から明治期にかけての幽霊画が冷房の良く効いた空間に陳列される。真夏の蒸し暑い中、汗をかきながらその静けさに足を踏み入れると、急な冷気も相まってか、鳥肌が立つ。
圓朝は柳橋で怪談会を開き、百物語に因んで幽霊画を集めていたとされるが、コレクションの中には彼の亡くなった後に描かれたと推定されるものも含まれているらしい。
全生庵の平井住職に取材をさせて頂いたことがある。コレクションが一般公開される前、彼がまだ子供の頃の話だ。1年に1度、1週間ほど寺の本堂で幽霊画を虫干ししていたという。朝夕と御供物を交換するのが彼の役目だったが、日が落ちかけた夕闇の中、供物を引き下げに本堂に行く際は、寺の子ながらも恨みがましい視線を投げかけてくる画の数々が不気味に感じたという。
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坂もそろそろ平坦になってくる。左手の昔ながらの長屋には招き猫の専門店が、少し行った右手には古き良き雑貨屋という趣の高梨商店がある。
ここで少し寄り道をしよう。商店の手前の道を右に曲がり少し歩くと、言問通り沿いに門を構える一乗寺という日蓮宗の寺がある。
作家の森まゆみさんが創刊、そして編集した地域雑誌『谷中・根津・千駄木』の46号、「木の伝説」特集にこんな話があった。北茨城市の家田良男さんの談。「谷中の一乗寺の塀のところに大きな松があって、お化け松だから恐いぞとおどかされ、なかなか通ることができませんでした」。
木にまつわる怪談は昔からあるもので、例えば文京区だと小石川の善光寺坂の途中にあるムクノキが有名だ。実際に見てみると分かるが、巨木を挟んで道路が二股に別れて迂回している。大戦の空襲により上部の3分の2が焼けてしまったらしいが、片側は焼けずに残ったようだ。しかし明らかに通行の妨げになっているにもかかわらず、伐ると祟りがあるということから、今も残っている。焼けた部分を切ろうとした際、関わった区役所の人が2人亡くなったらしい。
元々このムクノキには白狐の神霊がついていると言われていた。伝通院で秀才として知られた狐、澤蔵司狐。彼は地中から掘り出した十一面観音像を洞穴の中に祀って信仰するうちに変幻自在の神通力を得たとされる。また、蕎麦が好きで、近所の蕎麦屋(まだ現存している)に頻繁に食べに行っていたそうだ。そんな澤蔵司狐(たくぞうす)の観音像を祀っているのが、慈眼院澤蔵司稲荷。件のムクノキはそのすぐ近くにあり、澤蔵司狐が学寮への行き帰りに必ず礼拝していたそうだ。(『伝説探訪 東京妖怪地図』祥伝社より要約)
中学から高校にかけてこの近所に住んでおり、澤蔵司稲荷の前も良く通っていた。しかしこんな謂れがあるとは最近までつゆ知らず。昨年初めて神社の脇にある霊窟の「お穴」まで降りてみたが、そこだけ空気が凛としていて、パワースポットと呼ばれるのも頷ける。
そんな木と祟りに興味もあり、一乗寺を訪ねてみるが、そのような松の木は見当たらない。しかし、昭和10年(1935年)刊行の『下谷區史』にこんな記述があった。「境内に大田錦城の墓がある。又清元菊壽の墓もある。又老松樹あり、谷中の化松とて著名である」。
谷中の化松と呼ばれる老樹が確かにあったらしい。一乗寺に電話をして尋ねてみたが、「我々もそれがどこにあったのか分からないのです」とのこと。特に資料も残っていないらしく、口ぶりから察するに以前も似たような問い合わせがあったようだ。
その松の行方が気になるところだ。
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さて、三崎坂方面へ戻り、もうしばらく進むと、いよいよ目的地の谷中霊園が左手に広がる。JR日暮里駅の南側の崖の上、3万坪の敷地に約7000の墓碑を抱える広い墓地だ。
1843年の「御江戸大絵図」を見ると、この辺りは当時、天王寺の敷地であったことがわかる。その後、明治7年(1874年)に青山や染井、雑司ヶ谷などと共に、日本で最初の公営墓地として開かれた場所だ。
敷地の中央を走る道の両脇には桜の木が並び、花見の季節には大勢の人で賑わう。また、徳川慶喜や渋沢栄一、横山大観などの歴史的な人物や著名人の墓も数多くあり、それを訪ね歩くのも1つの楽しみ方だろう。
丘の上の立地であるせいか、谷中霊園はなんだか空気がよろしい。日暮里駅の向こう側に屹立する3棟のタワマンを除き、高い建物が周囲に無いせいだろうか。木々も多く、また墓地の間を縫う小道も草が茂り、都会のオアシスといった風情だ。何も考えずに歩き回るだけで気持ちが落ち着く。
子供の頃、雑司ヶ谷霊園の近くに住んでいたことがある。幼稚園児の記憶なので色々と曖昧だが、あの辺りの墓地には何かしらどっぷりとした陰気さを感じていた。谷中霊園はその点、重苦しい雰囲気は皆無だ。
最近は感染症もあり繁華街へ飲みに行く回数がめっきり少なくなったが、数年前まではどこか盛り場で飲んだ後、山手線の終電で日暮里まで帰ってくることがあった。駅近くのコンビニで缶チューハイを買い、不謹慎は承知で谷中霊園の適当なお墓の縁に座り、夜風にあたりながら就寝前の1人酒を呷ったものだ。
しかし墓地は墓地である。怪談話がないわけはない。
谷中霊園の中央の交番の隣に児童遊園がある。そしてその奥に、東京都の指定史跡でもある、天王寺五重塔の跡地がある。
元々は1644年に建立されたが、1772年に目黒行人坂の大火で焼失し、その19年後の1791年に棟梁の八田清兵衛によって再建された。総欅造りで高さ34.18メートル、関東で一番高い塔だったという。幸田露伴の小説、「五重塔」のモデルとしても知られた建築物だが、残念ながら昭和32年(1957年)の7月6日、放火により燃え尽きてしまった。
焼け跡からは新宿区の洋服職人・長部達五郎(48歳)と同じ店の従業員、山口和枝(22歳)の焼け焦げた死体が見つかったことから、不倫関係がもつれた先の放火心中だとみなされた。しかし小池壮彦の『東京の幽霊事件』(KADOKAWA)によると、第三の人物による殺人、放火、死体遺棄事件であった可能性も捨てきれないという。
偽装殺人であったかどうかは別として、小池氏の本には彼が墓地で出会った老人の興味深い話が紹介されている。昭和39年(1964年)の夜、まだ若かった老人が当時交際していた女性と谷中霊園を散歩していた時だ。あるお墓のそばに腰掛けると、ビニールの焼ける匂いと共に、墓石に誰かがしがみついているのが見えたという。驚いて駐在所まで走った2人。警官が渋々懐中電灯を回しながらその墓の近くを調べてくれたが、戻ってきた彼の背中にぶら下がるようにして、小さな焦げ臭い女がいたという。
そんなこともあり、谷中霊園にまつわる怪異がないか聞き回ってみることにした。残念ながら自分自身は霊感とは無縁な性分で、いわゆる心霊スポットと呼ばれる場所に出かけても特段何も感じたことがない。しかしこの地域の住人ならば何かしらエピソードを持っているだろう。そこで近所のよみせ通り沿いの「ビアパブイシイ」さんにクラフトビールを飲みに行った際、常連さんに話を伺ってみた。
千駄木2丁目在住のHさんの話。パイントグラスを傾けながら語ってくれた。
今から20年程前、彼女が某出版社でテレビ情報誌の制作の仕事をしていた時のこと。Hさんは当時日本橋の蠣殻町に住んでいたが、同じ部署の同僚二人と休みの日を示し合わせ、女三人で昼間に谷中霊園を訪れたという。
根津の言問通りから坂を上り、今は移転したパティスリー「イナムラショウゾウ」から谷中霊園の桜並木の方へ入る。3人のうちの1人は大阪の箕面出身で四谷に住んでいた二十代の後輩で、「視える」人だったという。
「住んでいる四谷のアパートの部屋に小さな女の子が良く出るから塩を盛っている、と言っていたね」とHさん。
三人はメインストリートから左に曲がり、墓地内に入った。谷中霊園を散策したことのある人なら分かるだろうが、敷石こそあれど、多くの道は未舗装で草が生い茂り、さらにかなり入り組んでいる。
奥まった場所まで行った際、後輩が突然こう言った。
「後ろを振り向かないでください」、そういうと、Hさんともう一人の同僚を大通りに戻るように促したそうだ。桜並木まで辿り着くと、その後輩は背後を確認しながら「あそこで止まっているから、もう大丈夫」と。
「彼女に見えて感じたものがなんだったのかは分からないけど、それが何故大通り手前で止まりついてこられなかったのか、とても不思議に感じた」とHさんは回想する。
果たして彼女が「視た」ものはなんだったのだろうか。女性はその後箕面の実家に戻ったらしいが、Hさんは連絡を取っていない。
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歴史ある地域だからこそ、このように奇妙な話を耳にすることも多い。この街の人々が織り成してきた、あまり光の当たらない層を発掘していきたいと思う。
次はどの道を曲がろうか。
とりあえず銭湯にでも行って、一杯飲んでから考えることにする。
*谷中・根津・千駄木界隈で不思議な話を聞いた、あるいは体験したことのある方がいらっしゃれば、是非 alex_nulalihyon@yahoo.co.jp までご連絡ください。