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祖父が営んだ紙箱屋の名を受け継いで──信陽堂編集室・井上美佳さん

祖父が営んだ紙箱屋の名を受け継いで──信陽堂編集室・井上美佳さん

まちまちな「まち」の人の眼鏡

“谷根千ご近所”に暮らす人・ゆかりのある人から寄せられたエッセイを紹介するコーナー「まちまちな『まち』の人の眼鏡」。今回は千駄木にて、ご夫婦で出版社・信陽堂編集室を営む井上美佳さんに、子どもの頃の千駄木や根津の思い出を寄稿していただきました。

東北の玄関口・上野からほど近い千駄木の暮らし

母方の祖父母は若いころ新潟から上京し、千駄木に居を構えた。子どものころはわからなかったけれど、宮城県出身の夫と実家に帰省して東京に戻るたび、このあたりが東北や新潟から近い場所だと実感する。たくさんの荷物を持って新幹線で上野に着き、短時間で帰宅できるのはとても楽でありがたい。実際、東北に実家のある友人知人が何人も近所に住んでいる。

祖父母の時代にはもちろん新幹線はなく、新潟は今よりもずっと遠かったはずだけれど、「北の玄関口」上野から近いというだけで親しみやすく住み心地のいい町だったのではないか。

隣家のおじいちゃんおばあちゃんも新潟の人だった。同郷だったこともあるだろう。家族ぐるみで仲が良く、うちの小さな庭に面したところに台所があったので、その窓を通しておかずが行ったり来たり。新潟訛りの大きな声で呼ばれると飛んでいっておいしいおすそ分けをいただいた。味噌醬油の貸し借りなんかも日常茶飯事で、何かの緊急事態のためにお互いに連絡しあうブザーまで設置してあった。

母は千駄木2丁目で生まれた。戦中戦後から高度成長期、そして今の千駄木とまちの変化を一番感じてきた世代なのではないかと思う。一人っ子だったが当時の隣家に3姉妹が住んでいて、そのうちのひとりと同級生だったこともあり、しょっちゅう泊まりに行ったり来たり。ほとんど4姉妹のようにして育ったそうだ。いまでも名前をちゃん付けで呼び合う様子はほほえましく、集まればにぎやかで楽しそうで幼なじみはいいものだと思う。偶然苗字が同じだったので、子ども世代の私たちはほんとうに親戚だと思っていたほどだ。3丁目に越してもよく電話がかかってきたし、おばあちゃんを病院に連れていったり、たしかに親戚のようだった。血縁関係があるかどうかなんて関係なく、家族みたいに暮らす関係が普通にあったのだと思う。

夫婦で営む信陽堂編集室では映画の上映会を行うことも

母の話で印象的なのは、不忍通りから日本医科大学附属病院に上がっていく角にあった映画館の話。ねずみが足元を走り回っているような映画館だったそうだが、いつも3本立てで映画がかかっていて少女時代の母は夢中になり、頻繁に通っていたらしい。いまでも映画好きなのは変わっていなくて、高齢になってもひとりで映画館へ行く。いまはマンションだらけの不忍通りだが、そのころはまったく違う通り、風景だったのだろう。また芸大が近いせいか、根津が花街だったためか、長唄、三味線、日舞、お琴などのお師匠さんがたくさんいて、お金があるなしにかかわらず、習いごとをしている人がとても多い町だったのも2丁目界隈の大きな特徴だったらしい。母も小さいころから日舞を習っていた。

母からは、森鷗外記念館の脇を入った藪下通りを境に山の手、坂下で階層が分かれていて、魚屋さんなどでは、山の手組は「奥さん」、坂下組は「おかみさん」と呼ばれたと聞いたこともある。そのことでいやな思いをするということはなく、そういうものだと思っていたそうだ。住む場所での住み分けの意識があったのだろう。興味深いエピソードだった。

消費のまちではなくモノづくりのまち

幼いころは自宅の物干し台からは浅草の花火が見えた。次第に大きな建物ができて遮られていき、部分的に見えていた時期、ほとんど見えないけど花火の燃えかすだけが風に乗って飛んできていた時期を経て、風向きによっては音が聞こえてくることはあっても気配はだいぶ薄れてしまった。

大きなマンションが少なかっただけでなく、子どものころの千駄木には小さな工場や商売をしている家が多かった。自宅のある区画には材木屋さん、石屋さん、金属を加工する工場などがあり、わたしの祖父が営んでいたのは紙箱屋だった。角砂糖なんかを入れる箱だったと聞いている。ビニールがこんなに使われていなかった時代の話で、かつては暮らしに必要なものが近くで作られていた。「消費のまち」ではなく、「ものづくりのまち」でもあったのだと思う。 

祖父はわたしが6才のころ交通事故で突然他界し、父は別の仕事をしていたので工場はそのまま閉じることになった。

工場が稼働しているときは危ないので子どもは入れてもらえなかったが、常に聞こえている、がしゃこん、がしゃこんと機械が動く音は今でもよく覚えている。

幼稚園から帰るとすぐ事務室に行き、事務担当のお姉さんたちといっしょにおやつを食べたり遊んでもらったり。住み込みの職人さんもいてにぎやかな子ども時代を過ごした。記憶にはないのだが、社員旅行で行った熱海の宴会場でマイクを握る写真が残っている。

昭和42年・自宅の近くに材木屋さんや石屋さんがあった

子どもの頃から通っていた祭り

何歳ごろまでか、不忍通りには都電が走っていた。といっても都電に乗った記憶はないのだが、たぶん家族で上野に行くのに日常的に使っていたのではないか。都電が廃止され、かわりにバスが通ることになった日、祖母に連れられてバスを見にいったことを覚えている。祖母にしたら大きくまちが変わる様子が感慨深かったのかもしれない。

祖父は陽気な酒飲みで毎晩根津のまちに飲みにいき、翌朝はいつも二日酔い。でもまた夕方になるとしゃきっと元気になって飲みに行ってしまう。相当の呑兵衛だったらしい。わたしが物心つくころはすっかり両刀遣いになっていて、祖父のあぐらのなかにちょこんと座る目の前には日本酒と最中が置いてあることが多かった。親戚の話ではとてもおもしろい人だったらしく、そして酔っ払うとさらにおもしろくなっていくらしく、武勇伝もたくさんある。ほんとうかどうかわからないがお銚子78本もの日本酒を飲んだとか。祖母はまったくお酒を飲めなかったので、燗をつけるだけで酔ってしまい大変だったとこぼしていた。もしかしたら途中から量を減らしたり水増ししていたかもしれない。祖父がもっと長生きしてくれて、いっしょにお酒を飲んだり若いころの話を聞けたらどんなに楽しかったか。

わたしは祖父にとって初孫でほんとうに可愛がってもらった。優しい優しい祖父だった。亡くなったあと両親に連れられて行きつけの飲み屋に挨拶に行ったとき、どの店でも「ああ、あなたが!」と歓迎された。たくさん自慢してくれてたんだろう。

祖母の兄にあたるおじいちゃんは根津で中華そば屋を営んでいて、小さいころからよく通った。はじめて食べたラーメンもチャーハンもその店だった。子ども用のプラスチックの器によそってもらって食べるのがおいしくてうれしくて。もちろん今でもどこの店よりおいしいと思っている。

中華そば屋の2代目で母の従兄弟にあたるおじさんは母と同い年で、わたしたち姉弟と再従兄弟たちも歳が近かったので、子どものころは夏休みに2家族で旅行に行ったりと親しい親戚づきあいが続いた。

祖父は早逝だったが、あとの3人のおじいちゃんおばあちゃんは長生きで、よく可愛がってもらった。お祭好きで、お祭のために日常があるような調子。おじさんは笛の名手で、80歳過ぎたいまも三代目の息子とともにお囃子の一員である。もちろん家族もわたしもお祭は大好きで、子どものころはよくお神輿をかついだ。お風呂券とお菓子をもらい、今はもうない、不忍通り沿いの梅の湯に子どもだけで行くのもとても楽しかった。夏の終わりから秋にかけてお諏方さま、天祖神社、根津神社とお祭りが続き、すべて行くけれど、やはり氏神さまである根津神社が一番なのは今も昔も変わらない。

昭和34年・根津神社のお祭り

根津にあった「変人会」の噂

根津に「変人会」というものがあったことはなんとなく聞いていた。すごく昔の話だと思っていたので20年くらい前に根津のおじいちゃんが亡くなったとき「変人会」の花環が出ているのを見つけて驚いた。変人会のメンバーとおぼしき老人たちも部屋の隅で飲んでいた。どんな活動をしていたのかは定かではないが、おもしろいことを考えて集まっては仮装行列をしたりして楽しんでいたらしい。女装で町を練り歩く写真を見た覚えがある。わたしの祖父は入っていなかったが、根津のおじいちゃんは一員だった。祖母は女物の着物を着せて化粧をしてあげる係だったそうで、とても器用だったので日本髪のかつらまで作ってあげていたらしい。紙人形を作るのが趣味だったから、もしかすると和紙で作っていたかもしれない。母の話によると祖母もとても楽しみにしていたそうだ。母をはじめ子どもたちは幼かったので伯父や親が女装する様子が恥ずかしくてとてもいやだったのだと笑っていた。 

祖父とちがい、長生きした祖母にもっと話を聞いておけばよかった。祖父母の時代の根津千駄木界隈の町の様子、大人たちがどんなふうに暮らし、日常を楽しんでいたのか知りたかった。

まさかこんなに長く千駄木に住むとはまったく思っていなかった。

そして祖父が亡くなって40年ほど経ち、祖父が立ち上げて一代限りで閉じた箱屋「信陽堂」の名を継いで本を作る仕事をはじめることになるとは、誰も想像できなかっただろう。信夫さんの信で信陽堂。陽気で楽しい人だったとみなが言うように、人柄を表すような屋号だったのではないかと思う。名前を継いだことを、両親や親戚たちはみな懐かしいと喜んでくれたけれど、いちばん喜んでいるのは間違いなく祖父だろうなと思っている。

信陽堂編集室

信陽堂をはじめて5年ほどで、自宅の隣、新潟出身のお隣さんが住んでいた土地に小さな建物を建て、2階を編集室にして、いまはそこで仕事をしている。もの作りがすぐ近くにある暮らしだ。

縁のある大切な人たちが過ごした場所で、たくさんの思いに守られながら暮らせるのは幸せなことだと思う。

今回、井上さんからは当時のお写真をお借りして掲載いたしました。もしも昔のお写真とそれにまつわるとっておきのエピソードをお持ちの方は、ぜひまちまち眼鏡店までお気軽にお寄せください。

この記事を書いた人ライター一覧

井上 美佳

1966年千駄木生まれ。子どものころは母方の実家で祖父母と三世代で暮らしていた。結婚して別の町に住んだが、2000年に実家を二世帯住宅に建て替え千駄木に戻る。2010年に夫と「信陽堂」を立ち上げ、自宅の隣の小さな編集室で出版の仕事をしている。 WEBはこちら

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